井上靖

今思うに、子はいつも、人間のことばかりお考えになっておられました。人間の倖せについて、不幸について、そして人間が、特にこの乱世に生まれ合わせた人間が少しでも倖せになるには、どうすればいいか。人間が不幸になるのを防ぐには、どうすればいいか。いつでも、子はこの地球上に生まれて来た人間というものについて、その倖せな生き方、生き甲斐ある生き方について考えておられました。人間、この世に生まれてきたからには、いかなる時代であろうと、倖せになる権利がある。そのようなお考えが、あらゆる子のお考えの根元に座っていたか、と思います。 『仁』とはすべての人間が倖せに生きてゆくための、人間の人間に対する考え方であります。「まこと」、「まごころ」、「人の道」、・・・・いろいろ、どのようにも名づけられましょうが、要するに、人間はお互いに相手をいたわる優しい心を持ち、そしてお互いに援けあって、この生きにくい乱れに乱れた世を、やはりこの世に生まれてきてよかった、と思うように生きようではないか。そういう考えが『仁』であります。